虐待

10/06/27
Aという友達がいた。小学校の頃はよく遊んでた。良いやつだった。

何歳の頃だったかも覚えてないけど、誕生日会に呼ばれた。

リビングに通されると部屋の中が暗かった。Aが泣きそうな顔だった気がする。Aのお母さんが出てきてカーテンを開けた。すると一部だけ濡れた布団がベランダで干されていた。

Aは母親のそでを引いて泣きわめいていたが、当の母親はニタニタと笑っていた。Aがおねしょをするたびにどれだけ大変か、その誕生日会はAの母親の自慢話大会となった。

その翌日からAはオネションというあだ名をつけられた。

またある時遊びにいくと、Aの母親が突然部屋にどなりこんできた。その手には、ほとんど〇がついた答案用紙がある。

俺なんて半分は×だったから、どなられるくらいはなれっこだが、Aは俺の目の前で往復ビンタをされた。Aの母親はやはりニタニタと笑っていた。

「B君はこんなささいな間違いしないわよね」

俺は首を横にふった。ちょうどその日に小テストがあったので、その答案用紙の惨たんたるありさまを見せた。

「おかあさんはどういう教育をなさってるのかしら」

勝ち誇ったような笑みだった。

Aはよく体育を休んだ。喘息の俺が最後尾を走っている姿ですら、うらやましそうに見ていたところをよく見かけた。

Aは頭が良いやつだった。良い点をとるとにっこり笑っていたが、だんだんそれもなくなってきた。

誰かへのあてつけのように白紙の答案用紙を提出して、校長室に呼び出されることも増えてきた。

中学二年くらいになると、Aにとって友達と呼べるのは俺だけになった。Aは夏場でもよく長そでを着ていた。俺はAに何がおこってるか気付いていた。

校長室にたびたび足を運んで、Aを助けてくれと教師達に懇願した。

ある日Aの母親が学校にどなりこんできた。俺のクラスまでやってくると、いきなり俺は首をしめられた。嘘つきと連呼されながら気が遠くなっていった。問題にはならなかった。

その日を境にAは俺にも声をかけなくなった。俺からはあいさつをしていたのだが、返事もしなくなった。

学校にはAの母親がたびたび来るようになった。俺は途中まではがんばって戦った。だがA自身が虐待がないと証言した。

俺こそが嘘つきであるといったのだ。Aが起こした事件がテレビをにぎわせたころ、テレビの中でAの母親がこう答えていた。

「しかるべき罰をうけるべき」

俺はその場で気を失うほど怒り狂った。迷わずテレビ局に電話をかけてAの弁護士の連絡先を教えてもらい、俺はA側の証人として立つことを決めた。

現役を退いた昔の校長先生なども来ていた。Aの父親すらAのために証言台にたった。Aへ加えられていた虐待の内容が法廷ですべて明らかになっていった。

唯一無二といえる友達とも絶縁せざるをえなくなった。Aの悲しい子供時代が皮肉にもAを救った。

日常的な性的暴行。公衆の面前で我が子をはずかしめることも多々。常に完全であることを要求し、できないと暴行を加えることも多々。

Aの住まう家は地上にあらわれた地獄だった。それをおこなっていた悪魔は一体何を考えていたんだろう。

Aの母親の罪状は明らかになった。Aの母親は表向き被害者へ詫びるとして自殺した。しかしその実態は自らの時効を迎えた犯罪暦が公判記録として公のものとなったからに違いない。

病院に収容されて数年、あいつは病室のベッドからろくにおりもしないでいる。筋肉が衰えて、もはや立つこともできないらしい。

ガリガリひょろひょろの体だ。極まれに正気に見えるときがある。そのときは決まって自傷行為をはじめる。

「おんなじ!おんなじ!」

加害者になってしまった自分が許せないという意味だと思う。

被害者のご遺族からの手紙に、許すという言葉があることを何度教えてやっても、Aは決して喜ばない。