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22/09/30
 私の父親はもう4年前に鬼籍に入ったが、若い頃には地元の小規模な私鉄で車掌をやっていた。
小規模な私鉄、と言っても今の若者の大多数にはピンと来ないだろう。ましてや、20世紀半ば頃までの日本が鉄道王国であり、例えば淡路島にさえ小さな電車が走っていたなど、相当年配の人でも知らないのではなかろうか。

 まだ自家用車が普及する以前は、地方に張り巡らされた中小私鉄は住民たちの足代わりになっていた。私や父の地元にも営業距離20キロ余りの私鉄があり、我々の住所がある盆地の町と、国鉄(今のJR)が通る海岸の町を結んでいたものだ。むろん今では跡形も無く、往時をしのぶ事も叶わない。
 だが、父はそこで車掌を務めていた時、何とも奇妙な体験をしたと、子供の頃の私に語っていた。それで私は、父の亡きあともその古い鉄道に思いをはせる事がある。


 昭和38(1963)年10月14日の月曜日の事だったと、父は言っていた。よほど印象的だったのか、日付まで覚えていたのだ。この日、父は盆地から海岸に向かう最終列車に乗務した。始発駅を発車したのは23時過ぎ(さすがに細かい時間までは記憶に残っていなかった)。
 この鉄道は電化されておらず、列車は気動車で、国鉄や大手私鉄の車両の3分の2ほどの大きさしかないこじんまりしたものだった。それが1両で走り、父は型どおり一番後ろの乗務員室に乗っていた。

 街中はまだ所々に街燈や住宅の明かりがあり、各駅ごとに乗り降りする客も何人かいたが、列車が次第に盆地と海岸を隔てる山地に近づくと共に人の姿は少なくなり、山の手前の駅では最後の客が降りて、車内は無人になった。何しろ深夜の最終列車だから、いくら地域住民の足とは言え、乗客の姿が無いのは珍しくはない。

 一体この鉄道は建設費を切り詰めようとしたのか、盆地と海岸を隔てる山並みを越えるに当たり、金のかかるトンネルを掘らずに、斜面を上がって行くようになっていた。25パーミルという急傾斜の坂を気動車はディーゼルエンジンのうなりを上げて駆け上る。車両の片側からはさっきまで通っていた町の明かりが点々と見えていたが、列車が坂を上り切って山の中に入ると、周囲は人家も無い全くの闇となる。

 そんな中で前方にポツンと黄色い光が現われ、やがて小さな駅が見えて来る。〇〇駅。人気(ひとけ)の絶えた山中にある無人駅だ。何でこんな所に駅が、と当時の父も不思議に思ったと言う。鉄道が開通した当時(1920年頃?)には何軒か人家があったらしいが、後に誰もいなくなった。当然駅も廃止するべきだったが、噂によれば、駅を一つつぶすとなれば運輸省(後に建設省などと統合して国土交通省)へ出す書類や手続きが煩雑なのでそのまま残しているのだとされていた。

 しかし、数はごく少ないが付近の山野を歩いたり山菜取りをする、山でキャンプをするなどで乗り降りする人もおり、また地元の小中学校の遠足などで児童や生徒がたくさん来る事もあり、廃止する必要も特に無かったらしい。
 だが、それも昼間のうちである。日が落ちれば乗降客は皆無。まさに鬼哭啾啾と言ったところだ。まして最終列車となれば、この駅を通る時には車内にも誰一人乗っていないのもしばしばで、乗務員、特に車掌にとっては薄気味悪ささえ覚える区間であった。

 父も何度も最終列車でこの駅に来たが、決していい気分ではなかった。こんな所で夜中に乗り降りする者などいなくとも、それでも列車は規定通り停車し、車掌は扉の開け閉めをしなければならない。周囲は黒暗暗。材木がむき出しの屋根に付いた白熱燈の黄色っぽい光だけが頼りで、侘しさはこの上ない。車内に1人でも乗客がいれば、それだけでずいぶん心強かったそうである。

 1963年10月14日月曜日、その夜の最終列車も、一人の乗客も無いまま○○駅に着いた。空は曇っていたようで、星も見えない。車掌の父は列車の扉を開けたが、まさに形式的で、3秒も立たないうちに閉じて発車のベルを鳴らした。停車のために運転士はブレーキをかけると同時に変速機を中立にしてエンジンをアイドリングにしていたが、ベルの合図と共にノッチを入れて出力を上げ、列車はホームを離れて行く。

 父は最後尾の乗務員室から、いつものように遠ざかりつつある〇〇駅のホームを眺めていた。あと2・3分もすれば海岸沿いの街の明かりが見えて来るのだが……。
 「!」、父は目を見張った。去りつつあるホームに誰かがいる。しかもこちらに向かって走っているのだ。「嘘だ!」と思わず声に出した。今頃客がいるわけは無いのだ。食い入るように見ると、女であった。ひざ下くらいまであるスカートが確かに見えたそうである。「待ってー! 乗せてー!」と呼ぶ声が聞こえた……ような気がした。

 父はとっさに室内にあったコックを引き、非常制動(急ブレーキ)を掛けた。強い力で壁に押し付けられそうになりながらマイクを取って運転士に告げた、「ホームに人がいる。止まってくれ!」。
 そう言いながら後ろを振り返ると、誰もいない。黄色い淡い光に照らされた物寂しいホームがあるきりで、人間どころか犬ころ一匹見えなかったのだ。

 父が唖然として後方に目を向けて立ち尽くしている所へ、列車が停止して運転士が駆け込んで来た。父と同年配で、いっしょに酒を飲んだ事もある同僚だ。こんな所に誰がいたんだ、と彼はいぶかしげだったが、父もわけがわからず、しかし確かにいた、と見たままを説明した。とは言うものの、ホームにもその周辺にも人影など無いのである。

 万が一の事もあるので、運転士は列車をバックさせ、もう一度ホームに着けた。そして父は彼といっしょに列車を降り、あちこち見て回ったのだが、やはり人の気配さえなかった。「おい、大丈夫か?」、運転士は疑うように父を見たものの、父が真面目一途な人間なのは彼もよく知っていた。「まさか幻覚でもあるまいし……。すまん。この責任は僕が取る」と父が言うと、「まあ、気にするな」と言って彼は運転室に戻り、父も持ち場に着いて列車は再び走り出した。

 結局、その日の『事故報告書』には運転士が「野獣の飛び出しで緊急停車。衝突したような音があったので現場に約5分停車し点検したが、異状なし」という意味の事を書いた。まさか、車掌が幻覚を見てブレーキを掛けたなどとは記録できなかっただろう。最終列車で、海岸の町に入ってからの乗客もわずかだったのもあり、お咎め無しに済んだ。

 むろん、その後も父は終列車で何度も〇〇駅を通ったが、二度と怪しいものは見なかった。それとなく他の乗務員に聞いてみたが、誰もそんな体験は無かった由。父もそれまで通り忠実に業務をこなした。
 残念ながらその鉄道は、モータリゼーションの急速な発展により営業の見通しが立たなくなり、1968年に廃止となった。しかし父は廃線前に頑張って大型2種免許を取り、会社が鉄道からバス運行事業に専念するとそのまま残留し、バス運転手として定年を迎えた。

 「で、父さんが見た女は何だったんだろうね?」、当然の事ながら私は、子供の頃には何度もそう質問した。父は「さあ、何だろうな?」と笑ってはぐらかすのが常だったが、私が20才になった時、もうその頃にはさすがに父も昔話はしなくなっていたのが、唐突に「お前も大人になったから、もう話してもいいだろう」と言って「あの山の中には誰かの死体が埋まっているのかも知れない。いや、これはあくまでわしの推測だがね」と話し出した、「あの夜、〇〇駅で見た女性はその幽霊だったのかも知れない」。

 「おい、父さん、物騒な事言わないでくれよ」と私は首を振った。まあ確かに、子供の時にこんな事を聞かされるのはきつかっただろう。
 辺鄙な山の中へ人間の死体などどうやって運ぶのかと問うと、案外わけもないだろうと父。登山用の大型のリュックサックやザックなら、小柄な人間を入れて運ぶのは不可能ではないだろう。登山者を装って死体処理を狙った犯人が列車に乗り、〇〇駅で降りたのかも知れない。万に一つでも、自分が乗務していた列車に乗っていたかも知れない。朝や昼間に、〇〇駅でそんな客が降りるのを何度か見た事がある、と。

 「でも、父さん以外の鉄道員は誰も幽霊なんかは見なかったんだろう? 気にしすぎだよ。死体が埋められたなんて、そんな馬鹿な」、私は言った。父はウンウンとうなずき、以後、91才で大往生するまで一切そんな話はしなかった。
 くそ真面目な父、タバコはやらず、酒も40になってきっぱりと止めた父がそんな事を言うのはちょっと意外だったが、考えてみれば、真面目だったからこそ奇妙な体験が、鉄道を離れてからもずっと頭を離れず考え続け、そうした結論に至ったのかも知れない。

 父が勤めた鉄道は、今ではもう記憶する人も少なくなった。廃線ヲタクもほとんど来ないようだ。もし仮に、……仮にである、父の言った通りかつての鉄道沿線に近い山の中に死体が埋まっているとしても、もう発見される事も無いだろうし、犯人ももう命が尽きてこの世にはいないかも知れず、誰一人知る者はあるまい……いまだ成仏できず、すっかり草と木に埋もれた廃駅をさまよう気の毒な幽霊以外は。


投稿者:へそ吉様