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22/08/09
 僕は甲市と乙市の中間あたりにある田舎の町役場に勤めている地方公務員である。公務員なんて気楽な稼業さ、などとまだ多くの人が思い込んでいるだろうが、どうしてどうして、結構きついのだ。世に言うブラック企業に比べれば楽かも知れないが、ブラック企業など本来はこの世に存在するべきものではないから、そんなものと比べられても困るし、いい迷惑だ。


 僕もこの1ヶ月半余り、農水省からの補助事業への対応で休む間もなかった。耕作放棄地を再生するための補助金を出すから調査して報告しろと言うので、農林業センサスの資料や農家台帳(今は電子化されて、以前よりは見やすくなった)を読んだり各農家へ聞き取り調査をしてデータをまとめたりと忙しく、平日は夜10時頃、時には11時過ぎまで残業し、土・日・祝日も出勤で仕事に追われた。まあ、確かに普段はこんなに目が回るほど多忙ではないから、勤務状況の激変で生活サイクルもずいぶん狂ってしまった。

 実は、僕は去年の健康診断で不整脈があると指摘された。軽度なので仕事や日常生活に差し障りはないが、放置しておくといけないので甲市の総合病院に月1回通院する事になった。それが上記の多忙のせいで先月は行けず、先日ようやく報告書の作成も終わり、翌日はたまっていた有給休暇を取ってようやく病院に行く事ができたのだ。9時を少し回った頃、僕は車に乗って家を出て甲市に向かった。

 さて、甲市と乙市を含むこの平野地方は、バブル経済崩壊以来の「失われた30年」とは無縁であるかのように工業や商業は順調に成長しており、従来の片側1車線の国道では物流や人流をさばき切れなくなった。そこで最近、バイパス道路が建設された。何しろ延長の9割が盛り土と高架橋で、交差点も信号も無いという高速道路並の高規格だ。交差点は無いから、ここを走りたければ一般道からインターチェンジ(と言うのかな?)を通って進入する。

 先々月までと同じように、僕の車はインターチェンジに入って加速し、本線に乗った。旧国道と同じく片側1車線ではあるが、今は暫定的に開通したまでで、将来は片側2車線にするとの話だ。高規格とはいえ、この道は一般道路扱いだから制限速度は時速60キロ。だが僕はいつも70キロで走っている。スピード違反と言うなかれ。日本の自動車の速度計は実際の速さより10キロか15キロくらい大きな値を示すのだから、それで問題はない。実際、他の車もほとんど70キロくらいで走っているから、僕もそれで円滑に流れに乗れる。

 流れに乗れるはずだったが、本線に入った直後に僕はブレーキを踏まなければならなかった。前を行く青い軽トラックがのろくさと走っているのだった。僕の車のスピードメーターは時速50キロの表示を越えなかった。一体何者が運転しているのだ? まあ、どうせ年寄りか免許取り立ての坊やだろう。病院への到着時間には余裕を見て出て来たからこれでも遅刻はしないと思うが、普段調子よく走っているのがいきなりノロノロ運転で前に立たれたら、さすがに平静ではいられない。

 僕は、安全と思われるぎりぎりまで車間を詰めてみたが、軽トラックは加速する気配なし。ルームミラーを覗くと、僕の車の後ろには後続車が数珠つなぎになっている。後ろの車も車間距離を詰めて来た。仕方がないよ、僕のせいじゃないぞ、そんな事を心の中でつぶやきながら、僕もいささか苛立って来た。とは言え、センターラインは黄色。対向車が切れても追い越しは出来ない。クラクションを鳴らしてみようか?

 そんな事で何分間のろのろ走っていただろうか? いきなりクラクションを2秒か3秒くらい鳴らされて、僕は飛び上がりそうになった。不整脈があると言うのに! あわててルームミラーを見る。後ろに付いている車を運転しているのは、サングラスをかけて髪を短く刈ったオッサンだった。これは面倒な奴みたいだぞ。だが仕方ないじゃないか。前の軽トラックが――。

 視線を前に戻した僕は、またもびっくり仰天しなければならなかった。軽トラックがいない! ほんのさっきまでぎりぎり前をのろくさと亀の歩みだったのが、影も形も無かった。眼前では対向車線上を車が次々こっちに向かって来るばかりで、僕が乗っている車線には1台の車も見えない。そんな馬鹿な! 僕がルームミラーを覗いたのもほんの2秒か3秒。仮に軽トラックが猛然と加速しても、あっと言う間に視界から去るなど不可能だ。

 何が起こったのか、とにかく考えるより先に僕はアクセルを踏み込んで時速70キロまでスピードを上げた。幸い、後ろのオッサンの車は煽って来る様子も無く、通常の車間距離を取って後に続き、甲市に着いてインターチェンジに入っても追って来なくて、僕は胸を撫で下ろした。心臓がひどく脈打ったので心配したが、病院では不整脈は改善に向かっている旨告げられ、ほっとした。

 さて、あの軽トラックは何だったのだろう? 幽霊か、異次元世界にでも消えたのか、それとも僕の精神の変調に原因があるのか? 後で町の福祉施設で保健師の女性に話してみたところ、「高速道路催眠現象(Highway hypnosis)」であろうと言われた。確かに、ここ一月半は仕事に追われて睡眠も充分に取れなかったから、自分では正常なつもりでも疲れがずいぶんたまっていて、気付かないうちにハンドルを握ったまま眠り込んでしまい、軽トラックが速度を上げて走り去ったのが分からなかった。あるいは僕はバイパス道に進入する頃からおかしくなっていて、あの青い軽トラックそのものが幻覚だったのだろうか?

 それでも、インターチェンジから本線に入る時の感覚は現実の経験としか感じられなかったし、ゆっくり走っていた軽トラックも本物だとしか思えないほど確かなものだったのだが。催眠現象とか幻覚とか言うものは、いざ体験するとそんなに生々しく、本物以外の何物でもないとしか認識できないのだろうか? もしそうなら恐ろしい事だ。


投稿者:へそ吉様