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21/08/30
 東海地方の某都市に「紀ノ国坂」と呼ばれる坂道がある。紀伊の国(紀伊半島南部)の坂、という意味である。なぜこんな名前が付いたのか、郷土史家もよく分からない。駅前の繁華街から少し離れた、物寂しい場所である。現在は道も拡幅舗装され、所々には街燈もあって夜間でも自動車がしばしば通るが、1980年頃までは人通りはあまり無かった。舗装もされておらず狭い道で、両側は荒れた感じの雑木林が広がっていて、市の郊外と駅前を結ぶ格好の近道なので昼間は徒歩や自転車で通る者もいたが、夜ともなれば薄気味悪く、人々は遠回りになっても明るい人家の多い別の道を行ったものである。「夜にあの坂を通ると “むじな” が出るぞ」と言い伝えられていたからでもあった。


 50年余り前の事だと言う。夜更けに紀ノ国坂を歩く者がいた。郊外の農家の主人で、駅前の親戚の家から帰る途中であった。風呂敷包みを下げ、懐中電燈で前を照らして行く。十日余りの月が照らして、道はそんなに暗くはないのだが、弱々しい月光のために両側に立ち並ぶ葉を落とした雑木が骸骨の群れのようにも見え、不気味だ。「やっぱり遠回りした方が良かったか……?」、そんな事をつぶやきながら農夫はゆるい坂道を下った。

 すると、こちらに背を向けて道端にしゃがんでいる人の姿が目に入った。少しずつ近寄って行くと、それは若い女であった。肩を小刻みに震わせて、泣いている様子である。こんな寂しい人気(ひとけ)の無い所になぜ若い娘が、と農夫は不審に思いもしたが、もしかして自殺でもするつもりなのか、それとも何か不幸な目に遭ったのかと考え直すと、懐中電灯の光を当て、「これ、娘さん、こんな所で何をしている? ここはあんたのような子が来る場所じゃない。どうしなさった?」と声をかけた。

 女は聞こえたのか聞こえないのか、泣き続けた。もう秋も終わりに近いのに、彼女は薄い白いブラウスを着ただけの軽装だった。かすかな泣き声と共に震える体はいかにも細くて華奢で、夜露をしのぐのさえ辛いのではないかと思える。下半身は濃い色のタイトの、当時の地方ではまだ珍しかったミニスカートを履いていた。スカートの裾から伸びる太ももとふくらはぎもやはりほっそりとして、それを包むストッキングが月光を受けてなまめかしい光沢を見せている。背を向けているからもちろん顔も見えないが、懐中電灯に照らされて艶やかに輝く長い黒髪が顔の両側を流れていた。泣き声を聞かれるのを恥ずかしがっているのか、かみ殺して押さえているようであったが、それが何やら弱々しく喘ぐようにも聞こえる。

 農夫も男には違いないから、そんな若い娘の色っぽさに心を動かされなかったわけではないが、彼ももういい年であり、実直で親切な性格だったので本当に女の事を心配して、できるなら助けてやろうと思ったのである。「どうしたのかね? そんなに泣かないで、何かわけでもあるのならわしに話してごらん。わしで良ければ力になってあげるよ」。

 それでも女はか細く泣き続けた。農夫は懐中電燈を風呂敷包みといっしょに左手で持ち、彼女の肩にそっと右手をかけて言った、「ねえ、お願いだからわしの言う事を聞きなさい。悪いようにはしないから。家が近くなら送って行ってあげるよ。さあ、立ち上がって」。

 女が泣くのをやめ、力無く下げていた頭を上げた。そして白く細くしなやかな指で顔を隠していた長い髪をかき上げ、顔をこちらに向けた。

 「わあーーっ!」と悲鳴を上げ、農夫は跳び退った。女の顔には目も鼻も口も無かった。ツルンとした無機質な表面が、冷たい月の光に照らされて白茶けて見えた。農夫は懐中電燈も風呂敷包みも放り出し、坂道を一目散に駆け戻った。むろん、後ろを振り返る勇気など無い。背後からあの弱々しい泣き声が追って来るような気がして、何度も転びそうになりながら死に物狂いで走った。ようやく前方に明かりが一つ見えて来た。恐怖心の中に希望の光を見出して、彼は走りに走った。

 それは、道端に止まっている中華そばの屋台であった。冷静に考えれば、こんな人通りの無い所で中華そばの店を出しても商売になるわけがないが、余りの恐ろしさに動転していた農夫にはそこまで理解する心理的余裕など無かったし、今はどんな光でもどんな者でも、とにかく人のいるのがうれしかった。彼は飛び込むような勢いで屋台の前の椅子に飛びつき、座り込むと屋台に体を預けて「ああ、ああ、ああ……!」と荒い息をついた。

 「これこれ!」、中年のそば屋はぞんざいな口調で声をかけた、「どうしました? 何をそんなに慌てていなさる? 何か怖い目にでも遭ったのかね?」。「……いや、怖いも何も、……ああ、ああ……」、農夫はまだ息が切れて、うまくしゃべれなかった。「何ですか? チンピラヤクザにでも絡まれた?」。「いや、チンピラなんかじゃない。……女が、女がいたんですよ……。その女が見せたんです、顔を……」。「へえ、どんな顔を?」。「どんな顔……。いや、とても口で言えるようなものじゃない」。

 「へえ、女が見せた顔というのは、こんなものでしたかね?」とそば屋は言うと、手で自分の顔を上から下へ撫で下ろした。するとその顔は卵のように目も鼻も口も無くなってしまった。

 「そうだとも、こんなふうにだよ!」、農夫も顔を撫でると、目も鼻も口も消えた。

 同時に屋台の明かりもフッと消えた。


投稿者:へそ吉様