悲しい

07/09/04
これは十年程前に、私の母から聞いた話です。

その頃、母は腸閉塞で入院をしました。

手術は無事に済み、2週間程の入院期間中も同室の患者さん達と仲良くなったりで本人はいたって元気に退院してきました。

それから1ヵ月後、母は奇妙な夢を見たそうです。

夢の中で、母はなぜか階段の拭きそうじをしていたそうです。

その階段は、かつて母がママさんバレー部に入っていた頃よく使用していた近くの中学校にある体育館のものだと思う、と言っていました。

ただ、その階段は体育館のそれよりずっと長くそうじはとても面倒に思えたそうです。

どれくらい拭き続けてきたか、長い階段もようやく残り数段になったころです。

「ああ、やっと終わりが見えた」

と母が階段の上を見やると誰かが上で労うように、母の名を呼んだそうです。

---お疲れ様---

一瞬とまどった母でしたが、すぐに気が付きました。

「ああ、Sさん。久しぶり」

それは、入院時に母の一番の話友達だったSさんでした。

年も近かったせいか気が合って、本の貸し借りもしていたと聞いたことがあります。

Sさんは、階段の上から嬉しそうに手を振っていたそうです。母も一時手を休めて手を振り返し

「ごめんねぇ、もうすぐ終わるから」

と言い、作業に戻りました。

しばらく無言で母は階段を拭いていました。すると、それまでずっと母を見ていたSさんが声を掛けてきたそうです。

---ねえ。疲れたでしょう?---

---少し、こっちで休んだら?---

そこで初めて、母はしゃがんでいた体を伸ばし、立ち上がりました。

母は、残り後3・4段だった階段の上を見てそこにストンと切り落とされたような溝があるのに気づいたそうです。

その溝の幅は30センチ程で、跨げる位のものでしたがその底はとても深くとても暗かったと言います。

Sさんは、その向こうにいました。

---そうじ、面倒くさいでしょう?---

---向こうで、お茶でもしましょうよ---

Sさんは微笑みながら、母を呼んでいたそうです。

(それもいいかな…)と母も考えたそうです。けれど、なんとなくそうじを止めてはいけないような気がして、

「うん。でも後ちょっとだから」

と声を掛け、再びしゃがみ込んだところで、

---そう?じゃあ、先にいってるね---

と、Sさんの声が聞こえたそうです。

母が顔を上げると、すでにSさんの姿はなく、あの深くて暗い溝もなく、ただ、2階のギャラリーのタイルが並んでいただけだったそうです。

目を覚まし、奇妙に記憶に残る夢を思いながら、母はとても自然に感じられたそうです。

(Sさん、今、逝ったんだね…)

数日後、母がSさんに貸してあった本と一緒に“Sさんが先日亡くなった”という手紙が届きました。

Sさんはきっと悪意などなくただ、最後の話し友達だった母に会いに来てくれたのでしょう。

それでも、もし夢の中で、母があの溝を越えていたら…

何気ない生活の中の、ほんのちょっとしたすき間にも何かの境界線があるのかもしれませんね。


引用元:http://mao.5ch.net/occult/