13/02/27
うちの母方の実家が檀家になってるお寺の話。
このお寺はそれほど大きくもないし有名でもないんだけど、母が住んでた村の住民は三分の二以上がそのお寺の檀家になっていた。
残りの三分の一は被差別集落の人たちで、その人たちのための別の寺があったようだ。
ただ太平洋戦争後は過疎化が進んで、集落の人はほとんどちりじりにどこかに行ってしまい、そっちのお寺はもうなくなっているらしい。
その実家のお寺には入ってはいけない場所、禁域がある。
子供の頃、母の里帰りについていったときに見て話を聞いた。
そこは寺の本堂の裏側を数百mほどいった、ちょっとした崖になっている下の方で、上から見下ろすと何ということもなく熊笹の茂みが広がっており、大きな石を掘った祠があるだけ。
崖の上は木の柵で降りられないようになってて、柵の内側に四つ大きくて立派な墓がある。
この四つの墓は、そのお寺の昔の歴代住職のもので、崖下から忌みものが村に戻っていかないように守っているんだそうだ。
江戸時代に村外から広まってきた流行り病でばたばたと人が亡くなり、あまりに数が多いのと死体から感染することを恐れたために、疫病で亡くなった人は家族が大八車(だいはちぐるま)にのせてこの崖まで運んできてそのまま下に転げ落としたという。
上から木っ端と松明を投げ落としたものの湿気のせいかあまり燃えず、夏の時分でもあり半焼け半腐りの死体が積み重なってひどい臭いだったようだ。
その後、ある程度疫病がおさまってから残った村人で法要を開き、高価な油を使って死体を焼き、その上に祠を掘った丸石を転がし落とした。
また、そのときにまだ健在だった実家の祖母から「疫馬」の話も聞いた。
これは祖母が子供の頃まで旧暦の8月25日に村で行われていた行事で、回り当番の衆以外には、だれも見てはならないものだった。
ただし今でもそのやり方は伝わっていて、村史などには書かれていないが、まだ覚えている年寄りが何人かいる。
夕方から夜にかけて、村の大通りを男数人が担いだ、皮をはいだ太い丸太が村外れの山道のほうに向かってゆく。
祭りのようなにぎやかなかけ声もなく男たちは無言だ。
丸太には裸の男の子供をかたどった紙貼人形がまたがる形で乗せられている。
裸の体はところどころ斑点のように赤く塗られていて、これは疫病にかかった人の姿を表している。
村の家々では固く戸を閉ざしてこれが通るのを見てはならない。
そして村の境界まで来ると
「疫神様出て行ってくれ、本物の馬に乗っていってくれ」
というような内容のことを皆でとなえ、その人形を山道のほうに放り出す。
そのあと丸太を担いだ男たちは川に入って身を清め、丸太を氏神の神社に奉納する。
これは人形を用いているが、疫病が流行っていた当時は、まだ息がある子供の病人を丸太に乗せていったのだそうだ。
これは神社の神官の主導で行われたらしいが、お寺と神社の役割の違いのようなものがうかがえて興味深い。
引用元:http://mimizun.com/log/2ch/occult/1333464457/
コメント
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神社はテキトー、子供は落ちるし人型は飛んで行きそう
西洋だって穴を掘って遺体をまとめて火葬にしてたんだから
中世頃までは普通にあった。
疫病で亡くなった場合、土葬だけでは不十分らしいよ。
地元に医術の心得があった坊さんの話が伝わっているが、ある疫病が流行った時、病人を診ていた坊さんもついに感染してしまい、遺言で「自分の遺体だけでなく、身につけていた物は全て燃やして、その灰も全部できるだけ深い穴を掘って埋めろ」と指示して亡くなったそうだ。
平安~江戸でも、薬師って坊さんの恰好してない?
祈祷で祓う神社は精神科医、お香(薬効のある香木は多い)を使える坊主は精神科&内科医のイメージだ。
現代の衛生学では「地下水の水脈を避けよ(もともとの墓地は殆どの場合,これはOK)。そして墓穴は最低2m,できれば3m掘れ」と言われているね。
それだけ掘って埋めれば衛生上の問題は無い。
疫病の処理としては妥当。基本は隔離。予防も治癒もできなきゃ仕方がない。
だからあそこの下あたりは鳥辺野と呼ばれた(鳥葬でもあったため)
神社でも寺でもそういうところは全国にある
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