08/09/21
母親が実際に体験した話。まだ母が5歳か6歳の子供の頃の話。
母が住んでいたのは広島県の山の中の村。典型的な農家で、兄姉も上が3人、下が4人と7人兄姉。
学校は夏休みに入っていたが、両親や上の兄姉3人はいつものごとく朝から田んぼ仕事。母は下の4人の弟妹の面倒を見るのが日課だったそうだ。
ある日、いつものように夕方になると両親や兄姉が家に帰ってきて、普通に夕食を囲んでいたそうな。
そんな一家団らんの最中に、父親と親交のある役場の人が血相を変えて玄関から飛び込んできた。
父親が何事かと話をしようとすると、「ここじゃ話せない」ってことで、庭に出て行って何事か話をしていた。
しばらくすると、今度は父親が血相を変えて家に入ってきた。母親と兄姉3人は今すぐに村の公民館へすぐに行けと言う。
で、今夜は恐らく帰ってこられないから、母は弟妹を寝かせるよう言いつけられたらしい。
何事か全く聞かされないまま、不審に思いつつともかく弟妹を寝かしつけ、自分も床についた。
目が覚めたのは恐らく深夜の2時とか3時くらい。尿意を覚え、仕方なく便所に行くことにした。
便所は一度玄関を出て、庭を通ってグルッと母屋を回り込んで裏手にあるので、いつも夜一人で便所に行くのはそれは怖かったそうだ。
だが尿意には勝てず…結局玄関から庭へ出た。
灯りは玄関についてる裸電球一つとあとは月明かりだけ。薄暗い庭の中に出ると、庭の真ん中で何か黒い塊が動いたのが見えた。
と、同時に何とも言えない吐き気を催すような臭いが周囲に立ちこめている。
玄関を出てすぐのところで、母は恐怖で身動きが取れなくなったらしい。月明かりの中で、その黒い塊は時々ピクッピクッと震えるように動いていた。
目が慣れてくると、その黒い塊はどうやら…人の形をしてることに気付いた。
こちらに向かってくる様子もなく、そこで母は恐る恐るその塊に近づいてみた。1mくらいまで近づくと…その塊は紛れもなく大人の女の人らしいことが分かった。
ただ…その異形に目をむいた。ボロボロの服を着て、露出されている肌は真っ黒に変色し、足からは何かをひきずるような様相をしていたらしい。
そこまで近づくと、その女の人は何かうなされているような小声でしゃべっていた。
「み…みず…みずを…」
と何度も言ってる。
このときはすでに「すぐに水をあげなきゃ!」と家の中に取って返し、水をコップにくんで庭に戻ってくると、、その時にはすでにその女の人は死んでしまっているようだった。
それを見た母はまた怖くなって、便所のことも忘れて布団の中で一晩中震えていたそうだ。
夜が明けてきた頃に母親と兄姉が帰ってきたのが、足音で分かったそうだ。
あの塊を見つけたらどうするんだろう…と思っていると、庭で母親が一番上の兄に何か叫んで、その兄がまたどこかへ走って行ったのが気配で分かった。
母親が家の中に入ったのを確認して、飛び起きて外で人が死んでる、と。一体何が起きたのか、と聞いてみると、母親は言葉少なげに語り出した。
広島市の中心で新型の爆弾が落ちた。何万人という人が死に、生き残った人もひどい火傷を負ったまま市外へ逃げてきている。
外に倒れている人も恐らくそうしてなんとかここまで逃げ延びて来たのだろう。
今、村の公民館にはそうして逃げてきた人が数百人とおり、みなひどい火傷や力尽きた人、それはもう見るにたえないくらいの修羅場だ。と聞かされた。
翌日、人手が足りないということで公民館に駆り出された母も…一歩足を踏み入れると、それはもうまさしく地獄絵図だったという。
以来、母は毎年8月6日の8時15分には黙祷を欠かさない。そんな俺も母に言われてずっと同じように、その時刻には黙祷をするようにしている。
今となってはもう遠い昔のことのようだが…実際に母にこの話を聞くと決して遠くない昔に、想像もつかないことがあったと実感させられる。
コメント
コメント一覧
遠くに親戚がいる人は、頼って連絡船等で避難したらしい。
船が満員になり、「俺は明日朝一で帰るわ」と笑った学友は、
その朝の投下で亡くなったそうだ。
運よく夜のうちに船に乗れた、知り合いの爺様の談。
以下読んでない
「広島県の山の中の村」というのが広島市からどれくらい離れていたのかわかりませんが、原子爆弾の爆発音やキノコ雲に誰も気が付かなかったのでしょうか? 原爆の爆風は60キロメートル離れた所でも感じられたと言いますから、話にあるように、重傷を負った被爆者が徒歩で逃げて来られる距離であれば、村人たちも異変に気付いたのではないかと思います。
一方、日本の軍部も政府も当初は広島に原子爆弾が投下された事はわからず、翌7日になってトルーマン大統領が原爆使用を公表して、また8日に仁科芳雄博士らの調査団が現地入りして原爆である事を確認した、という状況でした。そうした事実は国民には秘密にされました。村人たちが「新型爆弾」と認識していたとも考え難い。
また、夜中に母上が見た被爆者が女である事がわかったのも不思議。状況を見る限り、原爆の輻射熱でひどいやけどを負っていたようで、服がボロボロなだけでなく、髪の毛も焼けて無くなっていたはずでしょう。どうして女性と分かったのかな? 胸を見て気付いたのかも知れないが、月明りしかない夜中に、ですか……。
まだ疑問点はありますが、長くなりました。まあ、投稿日から60年以上も昔の話ですから、記憶の錯綜が起こったという事で納得しましょう。
逆だろ
乳幼児の世話を5,6歳の子どもに任せなければならないほどの異常事態だよ
原爆投下なんて状況は
元気だったか?
相変わらずだな。
街の状況とかそういう意味ではなく6歳の子供の手には負えないって話だろ
乳幼児4人を世話するのはプロでも大変だ。夜になったからって一晩中寝てくれるわけじゃないぞ
石垣のそばに立っていたことで熱線を直接浴びずに済んだ。だが一緒に世間話をしていた近所の人は、石垣の外にいたので着物が燃え上がり、全身の皮がむけて死んでしまった。
街は爆風で瓦礫の山と化し、あちこち赤と黒の屍が折り重なって転がっていたという。
私が小学生低学年の頃、大伯母からその原爆投下時の話を聞いて、人類が戦争を起こさないようにするにはどうしたらいいんだろうと一晩中考えた。
祖母や親戚の人たちは、小さい子供に原爆の話などするもんじゃないし、しても分からないよ、などと言っていた。
30年経った今でも憶えているのに。
今の日本で誰かに投票することで、核戦争を防げるだろうか。
アメリカの核兵器の傘に守ってもらっていることになっていて、何か文句がいえるのだろうか。
人類が全滅したら、戦争は終わるよ。次の知的生命体が出てくるまでは多分、大丈夫。
地元は 爆弾が1個しか落ちなかった 安全な疎開地、しかも農家が多いので食い物に困った話が全くなく、
2人の祖父のうち 片方は教師だったので徴兵はされず、
もう片方は、徴兵はされたものの 記録係になり危険な場所には殆ど行かなかったとかなんとか。
学校で戦時中のことを習って「食べ物が無かったの?」と聞いても、逆に「え?そうなの?」と聞き返される始末。
映画で見たり 話に聞いてる 戦争の悲惨さ的なものと、周辺の戦争知ってる世代とのギャップに戸惑う子供時代だった。
※1
普通、兄弟の総数には自分も含めるんだよ。日本では
へそ吉めずらしくまともなこと言ってんな
なんかわからんけど新型の爆弾らしいってのは当時言ってたみたいだし
女性ってのは声でわかったんだろうと思うけど
音や爆風でわからなかったのかは確かに謎だわ
まあともかく8月6日と9日には黙祷しちゃってくれや(元県民)
被爆者は鉄道でどんどん運ばれてきたので、公民館なんてものじゃなく、利用されたのは小学校でした。
各教室にずらっと並べて、婦人会総動員で救護と聞きましたが、子どもが駆り出された話は知りません。
そして、残念ながら、その後、数多く亡くなっていかれたとのこと。
面影もないくらい火傷をした人が家に帰り着いたという話はよくあります。が。あそこまで大火傷をした人が市外まで歩けるものなのか…
幼すぎて、よくある市内の話と記憶が混ざってしまっているのかもしれません。
阿呆に高等教育を施すとこんなんなるのか、、
あそこまで大火傷をした人が市外まで歩けるものなのか…
山のほうに住んでいて村の手前に山があって
村が爆風から守られてきのこ雲が見えないぐらいの位置
とすると私もおかしいと思う。
しかし、原爆はドームの上で爆発していて通常の爆弾とは違い
全方位に熱風が吹く。しかも地面に反射もする。
遮蔽物がほぼ無く地形により集中的に熱風が集まって吹き抜けた所で
やや遠方でも運悪く焼かれてしまう人がいた可能性は否定できないかな。
山登りをしていると、尾根筋の右が強風で左が無風とか結構あったりします。
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