天明の大飢饉
09/12/03
オカルトではないけど歴史の話でちょっと面白かったので投下。

まぁ怖い話と言うかウチの地域(山間部)で実際に起こった歴史なんだけどさ。

1783~4年は世に名高い「天明の大飢饉(てんめいのだいききん)」が起こり、わが南部藩(なんぶはん)でもたくさんの人間が死んだ。

南部藩がまとめた『南部史要(しよう)』によると、餓死者が40850人、病死者23848人、一家全滅で空き家になった家は10545戸にもおよんだという。

南部藩八戸でまとめられた『天明卯辰簗(てんめい うたてやな)』には、その当時の人身の荒廃の様が生々しく書かれている。

『夫をだまし打ち殺してこれを食い、わが子をも鎌にて一打にて打ち殺し、頭より足まで食し、行き倒れの死骸を見つけこれを食とし、また墓々を掘り返し死骸を掘り出し、夜々里に出でて人の子供を追候。』

また、遠く南部遠野藩の『動転愁記』には

『「もう喰いたいと言わぬゆえ許せ」と泣き叫ぶ八歳の娘の頭に石を打ち下ろして殺し、早瀬川に投げ込』

むなどの記述がある。

これだと生きていけないってんで、皆、農民も町人もどこか食いぶちを求めて家を捨てて逃げるそうだ。

しかし、皆が隣村に「亡命」してきてももちろん喰うものはどこにもないもんで、かえって食いぶちが少なくなって全滅の危険がある。

そうなるとどうなるか。亡命してこられる前に隣の村の奴をできるだけ殺そうって話になる。

皆必死だし、ニ、三人死んでも今さら皆気にしないから、若者とかまだ体力がある奴が鎌やくわを手に持って、隣村を襲撃して殺す殺す。

皆もう逃げる体力もないから皆殺しなんだそうだ。その殺された奴の遺体は飢えた者たちの食料になったというから凄まじい。

皆殺しをやった村では、未だに殺した人間以上に人口が増えないそうだ。

それでも、やっぱりいつの時代にもいい人はいるもんだ。

ついに飢饉も最悪の状態になると、一山も二山も越えた先にあるウチの町にまで農民が亡命してきたそうだが、土地の事情で生産が多く、まだ余裕があった。

俺の町の農民たちはあわれに思って、決して多くない蓄えを放出し、餓鬼みたいになった農民たちに炊き出しして振る舞ったんだと。

しかし、これがいけなかった。

メシを食わせた瞬間、大半の農民は死んでしまったそうだ。何ヶ月もろくすっぽ食ってない胃に食い物を入れると人間ってショック死するんだと。

農民たちは白目を剥き、ひっくり返って苦しみ抜くそうで、ウチの町の農民たちがおろおろするうちに皆死んだ。こういう悲劇がいろんなところで繰り返される。

善意でやったつもりが、かえって最悪の結果を招いてしまう。そのことを知った俺の町の先祖たちは、亡命してくる農民たちを追い払うようになった。

町は餓鬼の群れであふれ、そこらじゅうに行き倒れの死体が転がって極めて凄惨な光景だったそうだ。

今はその餓死者たちを供養する慰霊碑が町中に建っているが、この歴史についてはあまり触れられない。

未だに俺の町では、このときの歴史については口をつぐんでしまう老人が結構いる。

親から何代にも渡って、このことは口外するなと口止めされるからなんだと。

おしまい